いかりや長介。「長さん」は「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして、1960年代から2000年代まで、長きにわたりお茶の間の人気者であり続けました。
キャリア初期は主にミュージシャンとして活躍。1966年には「ビートルズ」の武道館公演で前座を務めたことでも知られています。
1970年代からは「8時だヨ!全員集合」の開始と共にコメディアンとしての人気が爆発。当時、社会現象と言ってもいいほどのムーブメントになりました。
「8時だヨ!全員集合」は、「生放送」が基本。大がかりな舞台装置が用意され、入念に仕込まれたコントとメンバーの体を張った笑いで視聴者の注目を浴びました。人気絶頂時には、コンスタントに40%という視聴率を記録していたモンスター番組。「8時だヨ!全員集合」から、現在もよく使われる、数々の「流行語」や「ギャグ」が生まれたことは言うまでもありません。
いかりやさんといえば、
あたりですかね!
1980年代に入ると、裏番組に「オレたちひょうきん族」などが台頭し、「8時だヨ!全員集合」の視聴率も低下しましたが、それでも30%をキープ。番組が終焉を迎える時期も20%台をキープしていたといいます。ちなみに「8時だヨ!全員集合」が記録した最高視聴率は、1973年4月の放送で記録した50.5%。たしかにこの数字を見ると、20%台でも「人気が落ちた」と言えるのかもしれません。
1985年に全員集合が終わると、いかりやさんは、「ドリフ」以外に、俳優としてのキャリアを本格的にスタートさせました。俳優としてのブレークはNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で演じた「鬼庭左月(おににわさげつ)」。コメディアンとしてのいかりやさんの真骨頂が、そのまま発揮された役柄で注目されました。
多くの人々の心に焼き付いている、いかりやさんの役柄は「踊る大捜査線」の「和久平八郎」ではないでしょうか?「踊る大捜査線」はフジテレビ系の連続ドラマでしたが、1999年には映画「踊る大捜査線THE MOVIE」も作られ、いかりやさんはこの作品で「日本アカデミー賞最優秀助演男優賞」を受賞しました。この「和久平八郎」の役柄は、コメディアンとしてのいかりやさんをしらない若い世代からも大きな注目を浴びました。年季の入った渋い演技が好評だったのですが、いかりやさんには「俳優としての自分はまだ駆け出し」的な意識があったようで、「踊る大捜査線」主演の織田裕二さんに、演技について教えてもらったというエピソードもあるそうです。
2000年代に入っても俳優、そしてコメディアンとして活躍。2003年にはドリフターズ結成40年を記念した「40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル」に登場しました。しかし、この時、既にがんが見つかっていて、ご家族には余命宣告があったそうです。いかりやさんのテレビ出演は、この「40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル」が最後になりました。2004年3月20日、いかりやさんは、がんにより亡くなります。74年の生涯でした。
いかりやさんの葬儀は3月23日にお通夜が、24日に葬儀式と告別式が行われました。
23日のお通夜には立川談志さん、植木等さん、堺正章さんなどの芸能関係者がかけつけました。お通夜の会場には、一般ファンのための献花台と記帳所も設置され、多くのファンが訪れたそうです。ファンの中には「8時だヨ!全員集合」を見て育った「ドリフ世代」が目立ち、お通夜の終わる頃にはどこからか「全員集合!」の声が上がり、涙を誘いました。
24日に行われた葬儀式と告別式には、ドリフターズのメンバーを始め、芸能関係者約800人、ファン約1万人が都内葬儀場に集まりました。お通夜には仕事のために訪れることができなかったドリフ最古参メンバーの加藤茶さんは、
長さん…。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に『大爆笑』のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そう言ったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。
と語りかけました。
40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。
なお、同じくドリフターズのメンバーである高木ブーさんは、葬儀の席で号泣しながら「バカヤロー!」と叫んでいたそうです。
喪主挨拶で長男の碇矢浩一さんは、
本当に親父はかっこいいやつでした。私の自慢の親父でした。
と語ると、
医者から余命宣告を受けまして、親父にはその事実を伝えることができませんでした。
本当に嘘をついて申し訳なかった。
と、いかりやさんの遺影に向かって頭を下げ、参列者の涙を誘いました。
出棺時、ドリフターズのメンバーらが運ぶ棺には、「踊る大捜査線」の台本と舞台挨拶の時に着用したジャケットが入れられたそうです。
棺をのせた車が動き出すと、人々から次々に、
長さん!
次、いってみよー!
オイッスー!
の声が上がり、故人を見送りました。
田中好子(たなかよしこ)さんは、1970年代に絶大な人気を誇ったアイドルグループ「キャンディーズ」のメンバー。キャンディーズ解散後は女優として数々のドラマや映画に出演しました。
「スーちゃん」の愛称で親しまれた田中好子さん。田中さんのほか、伊藤蘭さん、藤村美樹さんという、当時「スクールメイツ」に在籍していた3人が「キャンディーズ」として1972年にデビューしました。デビュー後、しばらくはヒットに恵まれませんでしたが、「年下の男の子」で大ブレーク。それまでは「かわいい系」の田中さんがセンターで歌っていましたが、「お姉さん的」な伊藤さんをセンターに据えたことで大ヒットにつながったと言われています。
当時は小中学生の女の子たちが、キャンディーズの歌を振り付け付きで歌っている姿をよく見かけたものです。「お姉さん的」な伊藤さんをメインボーカルに抜擢。この作戦があたった理由が分かりますね。
キャンディーズは1977年、「普通の女の子に戻りたい!」と解散を宣言。この言葉は現在でも使われるほどの名言で、当時は流行語ともなりました。実はこの解散宣言、事務所の了承無く、発せられた言葉だったのです。
ここからの約半年間が、キャンディーズの人気が最高潮を記録した時期です。
田中さんはキャンディーズの解散後、休養期間をはさんで1980年に芸能界復帰。当初は「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に出演していましたが、その後は女優として活動します。
1989年公開で、カンヌ国際映画祭にも出品された「黒い雨」では、日本アカデミー賞を含む、多くの映画コンクールで主演女優賞を受賞。演技派女優として確固たる地位を固めます。しかし、1990年代からは、芸能活動を続けながら、病気との闘いが続きます。はじめて乳がんが見つかったのは1992年のことでした。
2010年に乳がんが再発。十二指腸潰瘍を患い、絶食治療を行ったところ、免疫力が低下しての再発だったそうです。翌年2月にがんは無慈悲に転移、増殖。2011年4月21日、伊藤蘭さんや藤村美樹さんらに見送られ、息を引き取りました。
お通夜は24日に東京都内の斎場で執り行われました。このお通夜が、キャンディーズの3人が解散後、同時に姿を見せた最後の場となってしまいました。熱心なキャンディーズファンは、もう一度、3人が同じステージに立つことを夢見ていただけに、悲しい絵になってしまいました。
お通夜は喪主である夫の小達一雄さんの挨拶で始まりました。芸能人のお通夜としては珍しく、ファン参列者も焼香することのできるお通夜でした。
自身には子供がいないながらも、なぜか母親役を演じることが多く、「家なき子」「ちゅらさん」など多くのドラマで共演した「子供」の数は男女47人にのぼるそうです。キャンディーズで一番年下だった「スーちゃん」は、「日本のお母さん」と呼ばれるようになりました。
よく25日に行われた葬儀・告別式には、国仲涼子さんなど、「スーちゃん」の子供たちも参列しました。
国仲さんは、
笑顔がとても印象的な方。3月に熱が出て具合が悪いと言っていたのですが、病気のことは4月に入って聞いた。16日にはお見舞いに行って、最後は会話も難しかったのですが、私だとわかってくれました。本当にお世話になって、いろんなものをもらってばかりいた。私はなにもしてあげられなかった
と「母」の死を悼みました。
キャンディーズのメンバーも、それぞれ弔辞を読み上げました。
藤村美樹さんはその中で、
最後まで頑張り通したスーさん。
惜しくも亡くなる当日も本当によく頑張ってくれましたね。
ありがとう。
私も蘭さんも、もう間に合わないかと思ったけど、3人がそろってからのあの数時間は奇跡でした。
いつもなら絶対に集まることが不可能な親族も、みんなが勢ぞろいし、スーさんを取り囲んでお話をしたり、代わる代わる声を掛けたり、手をさすったりしました。
その、柔らかい手の感触を今でも思い出します。
(中略)
本当にキャンディーズは楽しかった。
本当に私たちはスーさんと出会えて幸せでした。
私たちは永遠にキャンディーズだからね。
おそろいのものも大切にするよ。
ありがとう。スーさん。
愛してるよ。
という言葉で締めました。
伊藤蘭さんも、
ミキさんと私にとって、いつまでも特別な存在のスーさん。心から感謝しています。
ありがとうスーさん。
ずっとずっと愛しています。
という言葉を、これから旅立つ仲間に送りました。
田中さんが亡くなったのは2011年4月21日。東日本大震災の直後のことでした。田中さんは生前、この未曾有の大惨事に心を痛められていました。
葬儀・告別式では、参列者へのサプライズとなる、田中好子生前の声が披露されました。
こんにちは、田中好子です。
今日は3月29日。東日本大震災から2週間経ちました。
被災された皆様のことを思うと、心が破裂するような… 破裂するように痛み
ただただ、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。
私も一生懸命、病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。
でもその時は必ず、天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。
それが私の務めと思っています。
今日お集まり頂いている皆様にお礼を伝えたくて、このテープを託します。
キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間、御世話になりました。
幸せな、幸せな人生でした。
心の底から感謝しています。
特に蘭さん、美樹さん ありがとう
二人が大好きでした。
映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。
お礼の言葉をいつまでも、いつまでも皆様に伝えたいのですが、息苦しくなってきました。
いつの日か、義妹・夏目雅子のように支えてくださった皆様に社会に少しでも恩返しができるように復活したいと思っています。
カズさん よろしくね。
その日まで、さようなら。
自身が大病と戦う中、震災の被害者を気遣い、寄り添い、弱さを見せながらも自分の役割を全うしたいという気持ちが伝わります。そして自身の死後は、義理の妹である故夏目雅子さん(夫の妹)のように、病気を通して社会貢献をしたいとの意思が伝わる内容でした。
出棺の際は、キャンディーズのデビュー曲「あなたに夢中」が流される中、田中さんのイメージカラー・ブルーの紙テープがファンにより投げ入れられました。伝説のキャンディーズ解散コンサートの時のような「スーちゃん」コールに見送られ、田中さんは旅立っていきました。
いかりや長介さん、田中好子さん共に、音楽の世界でデビューし、その後に俳優として活躍されました。
いかりやさんは「ドリフ」では完全にリーダー。しかし、演技の世界では若い俳優達に教えを請うなど、ひじょうに謙虚に仕事をすることから、多くの関係者に愛されたのだと思います。
田中さんの葬儀では、葬儀進行の関係者ですら知らされていなかった「サプライズ」がありました。田中さんの葬儀からは特に、「死のための事前準備」の大切さを感じさせられます。田中さんは「がんとの戦い」が長かったため、「最期のこと」について家族とよく相談していたそうです。
このお二人の葬儀からは、多くの愛と感謝、そして思いやりを感じることができました。
参考
田中好子 葬儀・告別式(Can Wiki)